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枝幸砂金の歴史

【観光情報】

枝幸砂金の歴史

こちらでは砂金の歴史についてご紹介します。

北見枝幸のウソタン砂金

●ウソタン砂金山発見の背景

ウソタン砂金の歴史資料写真1

 北海道の砂金産地は明治10年代の道南部から日高沿岸部の各河川へと伸び、それらの源流部から山越えをして明治20年代には夕張川上流地帯、空知川上流地帯へと広がり、さらには、襟裳岬を通って十勝の歴舟川などで砂金が採取されるようになる。一方、このころ、古い時代から浜砂金として知られていた羽幌沿岸部でも河川の源流部がことごとく探索され、明治29年頃になると天塩山地が北海道の産金地の中心地となる。明治30年の天塩地方の産金高は48、75キログラムに達しそれは全道の産出量の64%をしめていたほどである。
 このようにして北海道の砂金産出の中心は、南から北へと急速に移動していく。そして、このころの北見枝幸地方は、漁獲物が極度に不漁になり人々のくらしが困窮状態にあった。
 明治29年から32年頃まで水産物の収穫は低迷し続け住民はまさに毎日の衣食にも苦労する状態にあったという。したがってこのような時期に施行された政府による「金本位制」(貨幣は金と自由に引換えることができるようになり、金750㎎には1円の価値があった。)は住民に強い刺激を与え、金はこれまでよりもさらに身近な存在となってかねてから噂のあった枝幸市街南方の乙忠部や風烈布の砂金に関心が集まった。しかし、この地方の砂金の産出高はごくわずかなものでしかなかった。こうした状況であっても、この地方の砂金産出の情報は、すでに天塩地方の山地帯にまで北上していた大勢の砂金採取者たちを充分に刺激し彼らの活躍を引き出し、明治31年の夏、ポロヌプリ山系のウソタンナイ川において、「北見枝幸砂金地」がついに発見されたのである。その後の我が国において、この「北見枝幸」に匹敵するほどの砂金産出地は発見されていない。

●地質学的背景の中で

 北海道の日高山脈では、中世代に堆積した黒灰色の厚い粘板岩が南北方向に広く分布し、その中に入り込んだ火成岩類をはじめ複雑な地殻の変動のために変質してできた変成岩類などが見られる。ポロヌプリ山を中心とした地域で、大部分の地質は「日高層群」、「空知層群」などと呼ばれる古い地層から構成されている。これらは黒灰色で粘板岩や砂岩などを主体とした地層で、複雑な構造を示しながら分布している。このような断層に沿って北海道ではごく限られた地域に分布する蛇紋岩といわれる火成岩の小さな岩体が地下深くからいくつも入り込んでいる。この蛇紋岩は風化しやすいのが特徴でそれらが分布される所では、「蛇紋岩粘土」と呼ばれる独特の土壌がみられ、そこには特異な植物群が生息していることが多い。
 この蛇紋岩が分布する地域では古くから砂金や砂白金が豊富に産出していることが知られていることから、北見枝幸のゴールドラッシュを引き起こした豊富な砂金は、この蛇紋岩の存在と深い関わりをもつと思われる。
 一方、いくつかの河川においては蛇紋岩が分布していないにも関わらず砂金を産出している地域がある。そのような所では、黒灰色の粘板岩や砂岩とともに輝緑岩や輝緑岩質凝灰岩などが部分的に存在している状況もみられるので、砂金の存在はそれらの岩石や地層の分布とも深く関連している可能性が強い。

●ゴールドラッシュの始まり

ウソタン砂金の歴史資料写真2

 西尾銈次郎の報告によれば、堀川泰宗の探検によって、明治31 年6月に発見されたパンケナイ川には7月にはいると、砂金採取者たちがすでに数百人ほど入り込んでたという。これらの人々はほとんどが勝手に入り込んで砂金を採取する、いわゆる密採者で、それぞれの1匁(3.75㌘)~1.5匁(5.62㌘)ほど収穫があった。8月になるとウソタンナイ川の砂金も発見されて、ここでは一人に男が1週間の間に数十匁の砂金を得たという噂も流れ、9月には400から500人ほどの密採者たちがウソタンナイ川に殺到し始めた。
 こうして「北見枝幸のゴールドラッシュ」は、ウソタンナイ川においてこの時開始された。
 そして引き続き隣接するぺーチャン川においても豊富な砂金が発見されると、北の黄金をめぐる騒動はますます拡大されていった。4月には、わずか25人であった採取者の数が5月には14.743人となり、それが日ごとに増えて7月になると30.000人を越し、9月には50.000人に達する。そして、12月に入ってもなお2000人ももの人々が砂金を採取し続けていた。
 北見枝幸の山谷に数万人もの人々が押し寄せたとしても、彼らのすべてが砂金を採取できるとは限らない。それらの数字には、まったく労働に不向きな人々や北海道での暮らしになじむことのできない大勢の者たちも含まれていた。厳しい現実を前にして、帰る旅費に窮して衣服や所持品を売る者、故郷から旅費を取り寄せる者、また、警察官や戸長に憐れみを請う者などが続出したという。
 明治33年には、砂金採取の出願体制が整い各河川毎に多数の砂金採取許可地が出現する。そして、鉱業条例に基づく警察官の取締りが一層厳しいものとなる。この年の警察官は請願巡査も含めて警部3名、巡査40名が配置されていて、密採者は次第に姿を消し国から正式に採取許可を得た鉱区主に対して一定の入区料を支払い砂金を採取する者が増えてくる。

 この頃の北見枝幸の入込み数は10.000人を越していたことが推定される。

 明治34年になると北見枝幸の砂金産出量は急激に減少し始める。そして、この年の春には、石狩国樺戸群ソプチ川において有望な砂金産地が発見されて、北見枝幸を去る者が続出したがそれでも尚大勢の採取者たちがこの地方で活躍していた。

●採取された砂金

 砂金関係の資料のなかで実態を把握することが一番困難な項目はその採取高である。
 本来、どのような現場でも採取人たちは実際の採取料を他人に漏らすことは絶対にあり得ない。多量の砂金が採れる現場であることが外に知られるとそこは大勢の採取人が群がり、さまざまないいがかりをつけた結果、力ずくでもその現場を奪い取ってしまうことが非常に多いのである。したがって、採取高は常に極秘とされているために正確な生産高を把握することが難しい。
 『殖民広報』によると砂金採取量は、明治32年をピークに年々減少していると記し、明治32年176貫(660キロ)、33年120貫(450キロ)、34年107貫(401.25キロ)、35年52貫(195キロ)、36年32貫(120キロ)とその減少は目に見えて少なくなっている。ウソタン砂金地の鉱区は、大正7年に全て藤田鉱業株式会社が買収し、東洋のクロンダイクの余韻を残していたウソタン砂金地からも砂金掘りは姿を消していった。『浜頓別町史』は大正7年までの産出高累計550貫(2650キロ)と記している。現在のように機械力が駆使されていない時代に2トンあまりの採金は、驚異的な数字であり、その陰には、1枚のゆり板を操る熟練された砂金掘り技術と汗の結晶があり、またウソタン砂金地がいかに豊富な埋蔵量であったかを物語っている。

●記憶に残る大粒の砂金

・ウソタンナイ川の金塊
 明治33年にウソタンナイ川の支流であるナイ川の合流地点から200メートルほどの上流地 点で発見された重さ205匁(769㌘)の金塊がある。形は中央部が少しくびれた楕円形で 偏平である。長さ10.6㎝、幅6.4㎝、厚さ2.4㎝の大きさである。
・問牧川の金塊
 明治32年にトイマキ川で発見された重量197匁(738.75㌘)の金塊。
・皇室献上の金塊
 明治33年5月、枝幸村では東宮殿下の御慶事奉祝のため、ウソタンナイ川産の75匁( 1 56.25㌘)の金塊が献上された。
・鉈で割られた金塊
 北見枝幸では最盛期の頃300匁(1125㌘)を越す大きな金塊がウソタンナイ川から 出たという言い伝えが残っている。現場で見つけた4人の人夫が鉈で4等分して内緒で分け たのだが、現金に換えようとしたときに切り口の異常さが怪しまれて、結局、雇主に無断で 持ち出したことが知られてしまったということである。

●東洋のクロンダイク

 明治31年、北見枝幸のパンケナイ川で砂金が発見され引き続き頓別川の上流のウソタンナイ川でもさらに有望で良質な砂金の存在が明らかになると、大勢の人々が全国からこの地へ殺到し、瞬く間にゴールドラッシュが始まった。人々はこれを大いに喜び「北見枝幸」を「東洋のクロンダイク」と呼んだ。そのころ、カナダの北東部を流れるクロンダイク川の周辺でも大規模な砂金山が発見されて世界的なゴールドラッシュが始まっていた。この「東洋のクロンダイク」という表現には、この北見枝幸の賑わいがカナダのクロンダイクに匹敵するほどのものだと思いが込められていたのだろう。
 数年後には、ユーコン川とクロンダイク川の合流点にあるドーソンには数万人を越す一大集落ができあがっていた。しかしそのころ「東洋のクロンダイク」と呼ばれたわが国の北見枝幸では、主要な箇所の砂金は掘り尽くされていてこの地方の砂金は見捨てられつつあった。カナダのクロンダイクでは、発見後100年近い年数を経た現在でも、まだ、砂金採取が続けられている。

砂金採取者たちの生活

●密採者たち

 鉱物資源の採掘に関する法律には「鉱業法」がある。鉱業関係の法令が近代的に整備され始めたのは、明治23 年の「鉱業条例」の制定からである。この条例では、鉱物として金鉱、銀鉱、銅鉱など21種を規定したが、この中には、砂金、砂鉄、砂錫などは含まれていなかった。政府はこれらの砂鉱は特殊な存在として、それとは別に、明治26年、「砂鉱採取法」制定しその部門を整備した。砂金採取はこの法律の定めによって行われることになる。砂金そのもの鉱産物でありそれらは国家の財産として考えられていたから、砂金を採掘するものは、国に対して正式な手続きを行い、あらかじめ許可を得なければならなかった。北海道では札幌鉱山監督署がこれらの業務を担当していた。
 明治32 年の8月頃、枝幸の砂金産出地においてすでに国の許可を得ていたのは、ウソタンナイ川筋の廣谷季太郎、パンケナイ川筋の堀川泰宗、ぺーチャン川筋の廣谷季太郎などである。当時、わが国では鉱業行政の体制が確立されたばかりで、それはまだ充分に周知されていない状況にあったとはいえ、法規上からは採掘許可を受けていない者は違法者としてみなされ、取締りの対象となった。しかし、山間の奥地とあっては官庁の目もとどかず、手続きがされないうちに条件のよい場所には大勢の男たちがわれ先にと入り込み、終日、採取作業を続けた。
 身近な例では、ニセケショマップの奥地の山間の狭い場所で、違法な砂金採取者たちの草小屋がわずかな時期の間で1000戸以上も並んだほどである。人数にして7000人から8000人もの人々が集まって生活を始めたことになる。このような許可を得ずに勝手に河川を占拠して砂金を掘る人々は「密採者」と呼ばれていた。
 密採者が多数入り込んでるところでは、警察官が出張して取締りを行うのだが、採掘許可が下りたころには条件の良い場所はすでに掘り尽くされてしまっているという事態も持ち上がるほどであった。

●鉱区事務所と採取人

 採掘許可の手続きには、あらかじめ許可を受ける場所の正式な測量を行い製作した図面を添付して採掘事業の実施許可を申請する。鉱物の採掘が許可がされるとその場所は申請した者の「鉱区」として認められる。そして第三者がその場所で砂金を採取する場合のは、あらかじめその鉱区主の許可を得なければ採掘できないということになる。鉱区主はそれぞれの鉱区ごとに事務所や出張所を置いたりして、その区域で砂金採取を希望する者から一定の入区料を徴収して、区域を開放することができる。入区料は一人一ヶ月につき、砂金一匁程度の納入を基準とし、条件の良いところでは四匁程度納める現場もあった。
 通常、そのような鉱区事務所には数名ほどの事務員や請願巡査などが配置されているほか、米、味噌などの他、生活必需品、砂金採取道具などの販売を行う購買所も配置されていた。主要な砂金産地では、さまざまな紛争を防止するために、北海道庁から派遣された警察官が配置されているのだが広大な多数の鉱区のなかでは人員が不足し、法令に基ずく充分な対策がたてられず社会的にも問題視されていた。鉱区主は、日常の紛争を防止するために、経費を負担して派遣を依頼して確保した「請願巡査」が常に鉱区内を見回って監視し、違法な採取をなくすための努力が続けられていた。

●砂金採取者たちの日々

 現場での砂金採取者たちの砂金採取量はきわめて不安定である。一人一日5匁あるいは10匁を採取できる場合がある反面、一週間で一分も採取できないことも実際にある。しかし、明治33年9月調査では、一人一日当り平均3分程度であったことが知られている。
 現場での住居は、通常、「おがみ小屋」が使われる。簡単な雑木で三角形の骨組みを作り、屋根に当たる部分に背の高い雑草やササなどを刈り取って重ね、さらにその上をとど松などの丈夫な樹皮で覆った。
 砂金採取人の服装は、熟練者たちは、一般に、腹かけ、股ひき、半天などの鉱山労働者風の仕事着、それに脚はん、草鞋などを用いた。しかし、本州以南の各地からやってきた人々は、経験者も少なく、概して書生風、退職官吏風のいでたちであったという。現場での労働は夜明けから夕暮れどきまで続く。午前5時から夕方6時ころまで休みなく続け、昼時に小休止を取る他は、天候の悪化などがない限りひたすら砂金採取が行われる。砂金の回収は昼の休みと夕方の作業終了時の直前に行う。

 山での食生活は、米を主食とし、副食物は、味噌、干魚、野草、乾物などが主体となるが、手持ちの砂金もなく所持金も使い果たした時などは野草のフキやウドの雑炊が何日も続いたりする。食料はそれぞれの地区に置いて鉱区事務所に設置されている販売所や山中で営業している商店から購入する。ウソタンナイ川の馬道落合付近やぺーチャン川などには専業の商店として、そば屋、とうふ屋、荒物屋などのほか風呂屋、小料理屋なども並び小市街が形成されていたほどである。

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